大川木工祭が始まる

日本の戦災復興は目覚ましい早さで進み、やがては、高度成長期を向える事になります。

昭和24年(1949年)大川は国の指定「重要木工集団地」に指定され(旭川、高崎、東京、荒川、新潟の加茂、和歌山と共に)、現在の産業の基盤が確立されました。

昭和24年(1949年)榎津久米之介の400年忌を期して、「第1回大川木工祭」が初めて開催された。

桐里工房(きりこうぼう)の歴史

昭和27年(1952年)1月、旧の正月に桐里工房3代目稗田正弘が大川に生まれます。

昭和28年(1953年)6月25日〜29日にかけて、昭和28年西日本大水害が発生しました。この水害の真っ最中の6月28日に妻、智恵子が生まれました。

昭和29年(1954年)4月1日に大川町を中心とした三又、木室、田口、川口、大野島村の6ヶ町村が「町村合併促進法」に基づいて合併し、大川市が誕生しました。国勢調査によると昭和30年の大川の人口は49991人で、昭和35年(1960年)には50351人となり5万人を突破しました。

また、この年の昭和29年(1954年)からは、第6回大川「木工まつり」となり、毎年大川小学校を会場に開催されていました。講堂をはじめ、全ての教室が展示場となり、家具や建具をはじめ、木工資材や木工機械、イ草の織り機や農機具まで展示されていました。

各木工所の優秀な若手の職人達を選抜して、屋外に作業台(ばんこ)を並べて、共通の課題(茶棚等)をあたえ所定の時間内に仕上げて、その技術力を競うという木工まつりでの家具製作技術の競技会が行われていたのです。

この様に家具の職人の人口も増えて、戦後という異常な需要の高まる中、昭和26年より大川に定住した人物が工業デザイナーの河内涼でした。

彼は、大川工業試験所のデザイナーとして、大川の職人達にデザイン、塗装など、技術の指導や助言を行いながらも大川家具のシンプル化と、機能性を追求しました。そして、昭和30年(1955年)に「引き手なしのたんす」をデザインして、「第1回全国優良家具展」へ出品する事で全国の注目を集めました。

また、同年「西日本物産展」で最高賞を受賞して家具産地大川を広め、大川調のたんすとして世に知られる様になりました。

このデザインは、金具を取り付けないので、原価が安くでき、作り易くて、塗装が塗りやすく、量産品として、大川の多くの木工所で製作されました。

昭和38年(1963年)大川家具工業協同組合が生まれ、昭和46年(1971年)には大川産業会館が設立されました。